予測不能な人々~「自己の眠り」という意識状態~
この記事は2019年12月28日、13:36に更新しました。
更新内容:記事に加筆修正をいたしました。
グルジェフ曰く、
君たちは、アルメニアの狼と羊の童話を知っているかね?
『その昔、狼がいて、ひどく沢山の羊を殺して人々を涙にくれさせていました。
しかしとうとう ── どうしてかはわかりませんが ── 急に良心の呵責(かしゃく)を感じて、それまでの生き方を後悔しはじめました。
そんなわけで狼は改心し、もう羊を殺さないことに決めたのです。
これを本当に実行するために、狼は僧のところへ行って、神への感謝のための礼拝式をやってくれるよう頼みました。
僧は式を始め、狼も教会の中に入って泣きながらお祈りをしていました。
ところが、その礼拝式は長かったのです。
狼は、その僧の羊もたくさん殺していて、それで僧は狼が本当に改心するよう熱心に祈っていました。
・・・と、突然、狼は窓ごしに羊が家に連れ戻されているのを見ました。
狼はそわそわし始めましたが、僧は相変わらず延々と祈りを続けていました。
とうとう狼は我慢ができなくなって叫びました。
「やめやがれ、この馬鹿坊主! 晩のごちそうが全部行っちまうじゃねえか!」』
とてもよくできた話だと思わんかね?
つまり人間というものを非常にうまく描いている。
[引用:『奇蹟を求めて』ウスペンスキー著 / P560 最後から4行目~]
プンジャジ曰く、
自分が愚かであることを知らない者は、自分が知らないということさえ知らない。
彼のことは放っておくがいい。
その人は避けた方がいい。
彼と関わってはならない。
[引用:プンジャジ『覚醒の炎』/ P154 2行目~]
上に挙げた二人のマスター(師)たちの言葉は、どのような人たちについてを語っているのでしょうか?
そうです。
ある観点からしますと、「自己意識が目覚めていない人たち」についてを語っているのです。
ですが、「二つの文章に、どういう特徴や共通点があるのか、あまりよくわからない。」
「それと自己意識とが、どう関係があるのかわからない。」
というような方は、自己意識の目覚めに取り組まなければ、真なる自己の目覚めにおいても、ものにはなりません。
つまり、悟りなどは夢の中で見ている夢にしか過ぎません。
たとえ直接伝達などによって真なる自己の目覚めが起きても、じきに途絶えてしまうこととなるでしょう。
先の二人の文章は、自己意識の目覚めていない人たちの特徴を見事に言い表している。
先の発言から想像するに、グルジェフもプンジャジも、このような人々や生徒たちからさんざん苦しめられてきたのでしょう。
私とて例外ではありません。
私は生徒やお客様が「もう羊を食べたくないから、協力してくれ。」とお願いされたから、協力しているわけなのですが、
結局は、
「やめやがれ、この馬鹿坊主! 晩のごちそうが全部行っちまうじゃねえか!」
とくるわけですよ。
本当のことなんですよ。
しかも珍しいことではない。
「やっぱり、結局はそうきたか・・・」ですよ。
自己意識の目覚めていない人たちというものはね・・・
認めたくない現実に直面すると、いつの間にか、私がごちそうの邪魔をする悪人の立場に立たされいる舞台設定になっているわけですよ。
そのような、自己意識の目覚めていない人たちの頭の中ではね(笑)
私が、その人の本当の姿を映し出す鏡を、彼の前にかかげると、「俺はこんなに醜(みに)くい狼じゃないよ。この鏡が歪んでるんじゃないのか!?」とくるわけです。
彼らにとっては、直接伝達を受けても、数日から数週間で真なる自己の目覚めが途絶えてしまう自分は受け入れがたい。
「ならばもう一度お願いします。」と、再度直接伝達を受けても結果は同じ。
見かねた私が、
木幡:「やはり、真なる自己の目覚めの土台となる自己意識をもっと明晰にしておくことに取り組んでみませんか? 」
お客様:「それは、どういうことでしょうか?」
木幡:「つまり、いくら目覚めの芽が出ても、それを育てる人がしっかり面倒をみることができなければ、その芽はやがて枯れてしまいます。
言い換えますと、たとえ聖なる扉が開いたにしても、その扉のこちら側で、純粋意識を受けとる自己意識としてのあなたが明晰に存在していなければならないということです。」
お客様:「で、私の自己意識が明晰でないと・・・?」
木幡:「純粋意識との接触状態を継続できるほど明晰ではないという意味において、その可能性が大きいのではないかと考えています。
その根拠としまして、私が今まで気になっていた○○様(当事者であるお客様)の過去の言動をいくつかお挙げしますね。
誤解していただきたくないのは、私がここで気になっていたという言葉で意味するのは、それらの言動が人として間違っているとか、私にとって不快であったとか、そのような批判的な意味合いでお伝えしているのでは決してないということだけはご理解ください。
あくまでも、自己意識の明晰さを測る上において、気になったという意味であります。」
お客様:「ええ・・・」
木幡:「まず一つは○○の時、○○であったこと。
その時は、とても○○な意識状態であったと推察することができます。
次に、XXの時、XXであったこと。
そして△△の時、△△であったこと。
等々・・・
○○の時は、違和感を感じながらも、そこまで特に問題視しておりませんでしたが、××のこと、△△のこと等、たび重なるにつれ、ます○○さんの自己意識の明晰さにおいて不安が生じてきたというわけであります。
ですが、それでも純粋意識との接触状態が継続しているのでしたら、わざわざこのようなことはお伝えいたしておりません。」
お客様:「要するに、初歩的なところから始めなければならない・・・ そういうことですよね?」
木幡:「男性に多い緊張型やいわゆる知性型の人たちは、自己意識は比較的明晰だが、純粋意識との接触において苦労する人が多い。
女性に多い弛緩型やいわゆる感情型の人たちは、純粋意識との接触は比較的容易だが、自己意識を明晰に保つことにおいて苦労する人が多いかと思います。
ですから自己意識の明晰さにおけるワークはただの初歩的なことだとは思いません。
純粋意識としての自己の目覚めにおいて必須の両者である自己意識の明晰さと純粋意識の純度、そのバランスの問題です。」
お客様:「・・・ ということは木幡さんは、私の目覚めが途絶えるのは、私に原因があると仰るわけですか?」
木幡:「んっ!? ・・・・・・・ 他に理由は考えられませんが・・・」
お客様:「うるせぇ、この馬鹿坊主! 俺様の自己意識が明晰でないだと! そもそも自己意識って何なんだよ? ○○で悪かったな。 ××でご迷惑をおかけしました。 そんなことまで言われるのなら、お前みたいな人間からの指導なんて、こっちから願い下げだよ!」
と来るわけですよ。
気持ちは痛いほど、わかるけどね・・・
だけど、早速、話の趣旨が忘れ去れているでしょ?
「そんな感じになっちゃう人だから、つまり結局は狼の本性のみに操られた挙句、そのような自身の現状に対する自覚すらない人だから、そのために自己意識を明晰にしておきましょう」とご提案しているわけなのですよ・・・
あなたが「何をしてでも悟りたい」つまり「狼ではなく人間になりたい」と、いつも仰(おっしゃ)っいるからね・・・
僕だって、町ですれ違う人なんかに、
「失礼ですがよろしいですか? お見受けしたところ、あなたは自己意識がとてもぼんやりとしていて、はっきりとは目覚めていないようです。早急に何か対処なさらなければ、あなたの内に潜む狼に、ゆくゆくはあなた自身が食い殺されてしまいますよ!」
なんて、絶対に言いませんよ(笑)
それなら、罵声を浴びせられて当然ですから・・・
しかし、お客様とのやりとりにおいて、そのような罵声を面と向かって浴びせてきた強者(つわもの)はいない。
電話か主にメールだね・・・
ここもまた面白いとこだよね・・・
上記の件におきましては、私はそこで何が起きているのかを理解しているし、(歳は私よりも上ではあるが)可愛い(自称)弟子でもありましたので、ただじっと黙って聞いておりましたが、あまり気持ちの良いものではありません。
中には、突然、無視というか連絡不能になる人もいる。
私はさんざん心配して、時の経過と共に、「あっ、そういうことか・・・」と理解するに至るわけであります。
「やはり、そっち側の人だったんだ・・・」と。
いずれにしても、彼らが狼であり続けているということは、彼らが「自分が愚かであること」に気づくほどの知性がないからですよ。
それに「自分が愚かであること」を認める勇気(ハート)がないからですよ。
甘ったれの弱虫なんですよ。
けど、真のスピリチュアル・ワークとは、先のプンジャジの言葉が暗に示しているように、「自分のどうしようもない愚かさを痛感する」ところから始まるんじゃないのかな?
私たちは人間でもあるから、時として自身の奥底にくすぶっている狼としての本能や衝動などといったものに突き動かされることもあるわけですよ。
それ自体は悪いことだけではない。
ただそのような時に、狼として振る舞っている自分を自己意識としてのあなたが冷静に見守っていなければならない。
それができている人なら、狼として振る舞いながらも同時に、人間としてのふるまいというものができるはずなんですよ。
つまり、その言動のどこかに狼であることの恥じらいとでも言うべき良心に由来する感情、つまり狼として振る舞ってしまっている現在の自分の申し訳なさのようなものが、必ず垣間(かいま)見えるはずなんですよ。
見る人が見れば、そのような表現は、哺乳類動物のしぐさからなどからも伺うことができます。
しかし現代に生きる人たちの中には、そのような良心に由来する恥じらいというものを失くしてしまった人たちというものが大勢います。
そして、そのような人たちが作った社会や世界というものが、今現在のこのような有様であることもまた、極めて当然な帰結であると言わざるを得ません。
とにかく、そのような「自己意識の目覚めていない人たち」の行動というものは予測不能なのです。
自己意識が目覚めている人を相手にしていれば、そのようなことはありません。
「こう伝えれば、こういう反応が返ってくるはずである。」という暗黙の了解に基づく予測というものが外れることは、基本的にはないのであります。
つまり、「もう羊を食べたくないから、協力してくれ。」と頼んできた相手に対して、それに協力している以上は、感謝されることはあっても、怒鳴られるはずなどないのであります。
自己(意識)が存在していれば、片時もその約束を忘れることがないわけですから。
しかし、
自己(意識)が存在していなければ、そこにあるのは刹那的な衝動や感情との自己同一化だけです。
先の狼のように、「大切な約束」のことなどは、いとも簡単に忘れ去られてしまうのです。
言い換えるなら、大切なものや切実なものの順位が、その時々の気分や気持ちによって、簡単に変動してしまうということです。
そのような有り様ならば、その人にとっての本当に大切なものや切実なものなどはないということと同じことなのであります。
真正な意味における意志というものがないということなのです。
そんな、自己意識の目覚めていない人たちに対して予測できる唯一のことは、
自己意識の目覚めていない人々は、予測不能の行動をする。
ということだけであります。
予測不能の行動に出てくるということだけを、想定内のこととして予測することができるだけであります。
つまり、プンジャジが示唆しているように、危険な人たちなのであります(笑)
当然、そのような人たちが作り上げたこの世界もまた、同様な意味において危険なものであるというわけであります。
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